「カンパチばかりで単調だね」
この時期、魚市場に来る客は、よくそう言う。
だが、私はその言葉を聞くと、心の中でフフッと笑ってしまうのだ。
早朝、活気あふれる荷捌き場に並ぶのは、黄金色に光る「カンパチ」、「ショウゴ」、そして「カンパチ」。
活きの良さゆえに「ショウゴ(カンパチの若魚)」の群れは特にその姿が目立つ。
「単調」だと?いや、それは違う。「短調」なのだ。
この「カンパチ」、年間を通して獲れる時期はごく限られている。今、我々の前に山積みになっている光景は、一瞬の祝祭にすぎない。旬を外し、彼らが遠海へと姿を消せば、魚市場は途端に別の魚の顔だ。この一時の大漁こそが、季節という壮大なシンフォニーの中の、哀愁漂う短調のメロディなのである。
ああ、何て魚市場らしい屁理屈だろう。
そして、もう一つ笑ってしまう真実がある。
毎日、魚市場が活気づき「大漁!景気がいい!」と歓喜し、競り合っているが、そのすべてが滑稽なのだ。
大海原に棲む数十億の魚から見れば、この水揚げされた数トンの「カンパチ」など、バケツの水滴ほどの量もない。我々人類が今夜の食卓を飾り、経済を回していると信じているこの「大漁」という現象は、壮大なる自然から見れば、ただのちょっかい、バディヌリ(badinerie、冗談やおふざけ)に過ぎない。
「人間どもよ、この程度で喜ぶがいい。お前たちのささやかな営みは、我々からすればほんの悪戯なのだから。」
今朝の「カンパチ」の冷たい眼差しが、そう語っている気がしてならない。
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