
今は亡き小津安二郎監督の遺作「秋刀魚の味」の主役
でありながら、その実、劇中に姿すら見せない裏テーマ。
世間一般に言われる大衆魚の中で、小田原でもっとも見掛けない種の一つである。
「サンマ」を漢字で書くと「秋刀魚」、というのは誰でも知っていると思うが、これは北太平洋で成長した「サンマ」が北海道や東北沖へ回遊してくる季節が秋であり、主な漁獲域で旬の「サンマ」が大量に獲れるイメージから形成された当て字と考えられる。
では、小田原の「サンマ」事情はどうか。
多くの「サンマ」は夏から秋にかけて北海道、東北を日本列島沿岸に沿って南下し、銚子沖から再び太平洋沖へと戻る。しかし一部の群れ、及び群れからはぐれた純情派が房総沖から相模湾、さらに紀州方面へと至ることが有り、それらが沿岸の定置網に入ることがある。
多くは季節的に秋以降であり、小田原では早くて12月、ピークは1月と言われている。
そう、今日あたり獲れるのはなんら不思議のない、季節的にど真ん中の漁獲なのである。
「サンマ」の群れのしんがり、季節的にも黄昏を迎えつつある季節に、ちょっとヤセ気味の錆びた「
肥後守」的な憂いを帯びた「冬刃魚」とでも言うべき「珍魚」が、この季節の「サンマ」なのである。
確かに脂はない。確かに太りもない。しかし新鮮で臭みのない「サンマ」は、腹の苦みすら抜けて清々しいくらいに美しい姿をしている。それはまるで永平寺で修行を終えた後の僧侶のようであり、その魚体はいかにも「モーニング」を着用した老紳士であり、結婚式の帰りを葬式の帰りと同じ様なものという心境と「軍艦行進曲」を口ずさみながら寂しさをかみしめる
笠智衆との一体感を味わわずにはいられないはずである。それこそ季節外れの「サンマ」の味わいとシンクロする瞬間であり、人間として悟りを開いた禅の心と同じ事に気付くことになるのである。
もはやそこに魚の有無は関係ない。獲れる獲れないではなく、そこにある魚を買うか買わないか。
魚が在ったときに買う。在ったは、会ったであり、それは「一期一会」である。
その出会いこそ魚を味わうストーリーであり、歓びなのだ。「
美食家」とはそういうものだ。