室町時代、今の浜町にあたるところに船方村という漁村が起こったのが、小田原の漁業の発祥といわれています。北条時代、船方村に領主の保護のもと魚座という同業組合が生まれ、漁業およびその商いが活発に行われました。
江戸中期には魚座の名主や座員の家が80軒にも及んだといわれ、本町には魚座の商人たちが魚市を開く市場横丁が形成され、かなりの賑いを見せていました。この頃には魚の売買を専門とする問屋も多く生まれ、近隣の漁村の漁業者とも直接取引をし、力をつけてきました。
幕末から維新にかけて社会が急激に変動してきたため、問屋はその商権を維持することが次第に難しくなり、維新の頃には自営の市場を持つ問屋の数は4軒に、そして明治後期には3軒になってしまいました。
明治40年3月、3軒のうちの1軒の商権ならびに施設のすべての譲渡を受け、株式会社小田原魚市場は資本金10万円で設立、創業を始め、初代社長に鈴木善左衛門が就くことになりました。大正11年12月、さらに他の2軒の魚市場を合併し、今までの複数市場から単数の市場となり、これは現在まで続いています。
昭和18年、戦時物価統制令の発令に対応していくため、漁業部門を分離独立して、相海漁業経営組合を設立し、従来の小田原魚市場は流通部門へとそれぞれ専門化して経営に当たることになりました。
昭和25年、小田原市は早川に漁港の建設を決定し、18年の歳月と11億円余を費やし、昭和43年3月に現在の早川港を完成させました。その後、在籍船の増加、大型化にともない、昭和44年から隣接地に新港の建設に着手し、総事業費18億円を投下して昭和56年3月完成、第3種漁港の指定を受けました。
小田原市は本港の建設と平行して水揚岸壁およびその後背地に卸売市場を建設しました。株式会社小田原魚市場は市場の開設と同時に入場し、水揚地に整備された市場という特性を生かし、現在、神奈川県西湘地域における消費地市場として水産物の安全供給と地域社会の発展に努めております。
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